大判例

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東京高等裁判所 昭和56年(う)29号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役一〇月に処する。

原審における未決勾留日数中六〇日を右刑に算入する。

理由

〈検察官の本件控訴の趣意〉は、要するに、原判決は、「被告人は、法定の除外事由がないのに、昭和五五年五月一七日午後七時二五分ころ、清水市江尻東一丁目三番一一号パチンコ店「平楽」において、覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパン塩酸塩を含有する結晶状粉末約0.15グラムを所持したものである。」との公訴事実に対し、「本件覚せい剤の差押手続には、憲法三五条、刑訴法二一八条に定める令状主義の精神を没却する重大な手続違反があり、本件覚せい剤粉末(鑑定のため全量費消されている)に関する鑑定書は、違法な収集手続によつて得られた証拠物に基づいて作成されたもので、その違法も重大であると認められ、これを証拠として許容することは、将来における違法な捜査の抑制の見地からして相当でないから、右鑑定書は違法収集証拠として本件証拠から排除されるべきであり、本件公訴事実の証明は不十分である。」として、被告人に対し無罪を言渡したが、本件覚せい剤の差押経過などに徴すると、原判示警察官らによる被告人に対する職務質問及びこれに付随する所持品検査は、警察官職務執行法(以下、「警職法」という。)二条に基づく適法な職務行為であることが明らかであるのに、本件覚せい剤の差押手続が違法であるとした原判決は、警職法二条、刑訴法一条及び憲法三五条の解釈適用を誤り、ひいては証拠能力のある証拠を証拠能力がないものとして採用しなかつた点において判決に影響を及ぼすことの明らかな訴訟手続の法令違反があるから、破棄を免れない、というのである。

そこで、所論にかんがみ、原審記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調の結果をも合わせて検討する。

まず、原審及び当審で取調べた関係証拠によると、本件覚せい剤が差押えられるに至つた際の具体的状況としては、(イ)警察官海野保美、同伊東和男の両名は、本件当日午後七時一五分ころ、パチンコ店「平楽」で遊技中であつた原科幹雄を覚せい剤五袋を所持していた現行犯人として逮捕し、その後同店店員から、「逮捕された原科の連れらしい女がいる。その二人は店内で行動を共にしていて、二人は一緒に店の奥にある洗面所やゲームコーナーにも出入りしており、洗面所の近くには注射をするとき使つたような血のついた二、三センチメートル四方の脱脂綿が落ちていたから、覚せい剤の注射をやつているのではないかと思う。その女は二一番のパチンコ台で遊技中である。」旨聞き込み、血のついた脱脂綿も確認したうえで、同日午後七時二五分ころ、被告人に対する職務質問を開始しようとしたこと、(ロ)被告人がパチンコをしていた二一番台の前にはパチンコ玉が半分くらい入つた玉入れ箱が置いてあり、その中には煙草「ショートホープ」とマッチの小箱各一個があつたが、右海野らは、従来、パチンコ店で覚せい剤の授受・使用などが行われたり、覚せい剤を使用する者が煙草やマッチの箱の中に覚せい剤を隠置所持したりする事例に接していたことから、右煙草の箱の中に覚せい剤が入つているのではないかと判断し、被告人に対し、警察手帳を示すなどして身分を了解させたうえで、職務質問を開始したものであること、(ヘ)被告人は、海野らが警察官であることを了解したうえで、当初本件煙草の箱等が自己の物であることを認めながら、その提示を求められるや、「何もないよ。」と言つてこれに応ぜず、そわそわした様子を見せ、同様のやりとりが繰返された後、海野が煙草の箱の方へ手を出そうとすると、被告人はいきなり左手で煙草の箱を握りしめ、海野において被告人の右側からその左腕をつかんで押さえ煙草の箱を提示するよう説得するうち、被告人は握りしめていた煙草の箱を着ていたブラウスの胸元の方へ持つて行き、これをブラウスの胸の内側に入れようとしたため、海野は、箱を胸の内側に入れられては内容確認が困難になると判断して被告人の動作を制止し、なお若干の間被告人にその提示方を説得したが、被告人においてこれを握つたままで提示しようとしなかつたので、伊東が被告人の左側から手で被告人の左の肘付近を掴み、海野が左手で被告人の左手首を握り、右手で、被告人がその左手指で握りしめてその手指から三分の一くらい外に出ていた煙草の箱を掴んで上に引張るようにして取り上げたこと、(ニ)海野がその煙草の箱を開けてみると、煙草数本のほか銀紙の包みが一個入つており、銀紙の包の中に白色結晶状の粉末が入つていたので、試薬を用いて簡易検査をすべく清水署に連絡し、応援の久保田巡査部長が同店に到着するや、被告人は隙をみてその場から逃走しようとし、次いで、右久保田において前記粉末の検査をしようとしたところ、被告人は手で、粉末の包紙を下から払い上げて粉末を飛散させ、下に落ちた粉末をを足で踏みつぶして検査を妨害し証拠隠滅を図つたが、結局、検査の結果覚せい剤の反応が出たため、海野らにおいて同日午後七時五五分ころ被告人を覚せい剤所持の現行犯人として逮捕するとともに、本件煙草の箱とその中に入つていた銀紙包みの覚せい剤を差押えたこと、(ホ)本件当時、清水警察署管内には合計三名の婦人警察官が配置されているだけで、その勤務時間は午前八時三〇分から午後五時一五分までの日勤制であつて、夜勤はなく、従つて、午後七時三〇分ころ急遽招集をかけることは著しく困難な状況であつたこと、以上の諸事実が認められる。

そして、右各事実を総合して判断すれ判旨ば、海野が被告人から本件煙草の箱を取り上げる直前の段階において、その中に覚せい剤が隠匿されている蓋然性はかなり高く、その時点で被告人には覚せい剤事犯という重い犯罪の嫌疑が相当濃く、しかも、被告人は物件をブラウスの胸の内側に入れようとし証拠隠滅に等しいような挙動に出たのであるから、警察官として、いたずらにこれを放置することなく、被告人の右所為を制止ないし防止することは、警察官本来の職責であつたと言わざるをえないのであつて、本件の場合職務質問に伴う所持品検査の必要性・緊急性は極めて強かつたものと考えられる。この点は、原判決も、「被告人が握りしめた覚せい剤入りの煙草の箱をブラウスの胸の内側に入れようとした時点で、海野・伊東が手をかけて制止した行為は、緊急やむをえなかつたと認める余地がある。」と説示しているところ、右判断は相当として是認できるものというべきである。

ところで、原判決は、「右行為に続いて、海野が被告人の握りしめていた指をほどいて積極的に煙草の箱を取り上げた行為は、実質的に刑事手続上の捜査ないし差押にあたることを令状なしで行つたとの批判を免れ難く、いかに緊急の必要があるとの判断によつたとはいえ、侵害される人権と押収によつて保護されるべき事件の証拠保全の重要性を比較考慮しても、相手方の意思に反するだけでなく、身体的自由をも侵害する強制力の行使であり、職務質問に随伴する所持品検査としては明らかにその限度を逸脱した違法な行為と認めざるを得ず、憲法三五条、刑訴法二一八条に定めた令状主義の精神を没却するに至るおそれがある。」旨判示して本件覚せい剤の差押手続を違法とし、右覚せい剤についての鑑定書の証拠能力を否定するのである。

しかし、前示のような本件差押に至るまでの具体的諸状況に窺われるように、海野が被告人から煙草の箱を取り上げた行為は、決して令状主義の諸規定を潜脱しようとする意図をもつて行われたものとは認められないこと、また右有形力行使の前提となつた状況、有形力行使の態様及びその程度について考察すると、被告人は、警察宮の質問を受けてはじめてそれまでパチンコの玉入れ箱に入れていた煙草の箱を手に握つたものであること、通常煙草以外の物が入つているとは考え難い煙草の箱の中を検査した本件の場合、被告人個人の所持品に対する秘密の保護という法益を侵害するおそれは客観的にみて少なかつたものと認められること、被告人の身体に対する有形力の行使も、本件具体的状況のもとにおいては所持品検査を実効あらしめるための措置としてその限度を著しく逸脱したものとは考えられないこと、もともと覚せい剤事犯の検挙は所持の現場を押さえる以外には極めて困難であるのに、所持品検査において自発的な提出を期待することは殆んど望みえないと考えられること、とくに本件においては、被告人の覚せい剤所持の容疑がかなり濃くなつた段階で、被告人が証拠隠滅行為に等しいような挙動に出るという緊迫した状況にあつたものであり、それにもかかわらずこれに対してなお根気よく被告人を説得することを警察官に求めるのは、本来職務質問ないし所持品検査が、犯罪の予防・鎮圧等を目的とする行政警察上の作用であつて、流動する各般の警察事象に対応して迅速適正にこれを処理すべきものであることにかんがみると、やや難きを強いるきらいがなくはなく、しかも、本件現場にいた警察官は二名だけで、婦人警察官の緊急招集が著しく困難な実状にあり、かつ、被告人が逃走及び証拠隠滅を図る可能性も強かつたものと認められ、このことは、実際にも、その後間もなく前示のように被告人が警察官の隙をみて店外へ逃げ出し、また、覚せい剤粉末の包みを手で払い上げて飛散させるなどして証拠隠滅を図つたことから推しても明らかであり、被告人に対する監視を続けてその間に令状請求の措置をとることは殆んど不可能であつたものと認められること、叙上の諸事情が記録上明らかに看取でき、以上の諸点に徴すると、海野が被判旨告人の握りしめていた煙草の箱を強いて取り上げた行為は、その有形力行使の態様及び程度において所持品検査として許容される限度を超え行き過ぎがあつたとしても、本件職務質問に伴う所持品検査の必要性・緊急性、これによつて害される被告人個人の法益と保護されるべき公共の利益との均衡などを考慮すれば、所持品検査として許容される限度を著しく逸脱したものとは解されないうえ、もとより海野において令状主義に関する諸規定を潜脱しようとの意図があつたものでないことは前示のとおりであるから、本件証拠物の押収手続の違法は必ずしも重大であるとはいいえないのであり、右証拠物を被告人の罪証に供することが違法な捜査の抑制の見地からみて相当でないとまでいうことはできず、本件差押にかかる覚せい剤の証拠能力を肯定して差支えないものというべきである。しかも、原審において、弁護人は右覚せい剤についての鑑定結果を記載した鑑定書を証拠とすることに同意しており、その証拠能力を争つていず、その点からも本件鑑定書の証拠能力を肯定すべきものであるのに、本件覚せい剤の収集手続に重大な違法があるとして右覚せい剤ひいてはそれについての鑑定書の証拠能力を否定した原判決の判断には訴訟手続の法令違反があり、その違反が判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、所論のその余の点について判断するまでもなく、原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。〈以下、省略〉

(市川郁雄 簑原茂廣 千葉裕)

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